注意力三万世界

脳筋チンパンカラクリのぼやき。句読点に苦手意識があります。

歪な自己肯定

昔から嫌いなものがある。虫が嫌いだ。あと汚いものも嫌いだ。嫌いだった。でもいつしか嫌いなのにも関わらずなぜだか気にもなってしまう。虫が大嫌いなのに昆虫図鑑を開いてしまうし、排水が垂れ流される川なんかをずーっと眺めてしまう。嫌いなのに気になるのか、気になるから嫌いなリアクションをしてしまうのか。小学生の恋愛のソレのようなモノを虫や汚水にしているかもしれないと思うと非常に複雑極まりないのだがやってしまう。

 

虫が嫌い、怖いものが嫌い、グロテスクなものが嫌い、汚いものが嫌い。だったのに虫を見に国立科学博物館に足を運び、シャレ怖サイトを読み漁り、キツいヴィジュアルのクリーチャー映画やスプラッター映画にのめり込み、生ゴミがごちゃ混ぜのゴミ箱を眺めてしまう。なにがわたしをそうさせるのか、嫌いなものと対面している自分に酔っているのか興奮しているのか。確かに今挙げたものの中でカテゴライズの違うものはある。虫は実際に目の前に現れたら心底嫌で動けなくなるし、生ゴミや泥水には触れたくない。逆に怖い話なんてものやクリーチャーやなんやかんやというのは趣味というまでに好きになった。そうゆう違いはあるものの辿ったときの根底にあるのは「そんな自分にとってネガティブなものに対峙している自分に酔っている・興奮している」ということなんだろう。

 

性生活の話になってしまうが人よりも多少濃い嗜好があるかもしれない(スカとかそうゆう類ではない)。それも根底にはマイノリティなものを許容できる「自分」に酔っているのかもしれない。

 

 

わたしは成功体験が少ないと自分で思っている。だから自身を肯定する根拠もないし、習慣もない。そんなわたしがわたしを守るために行ったのは「自身に酔い興奮する」歪な自己肯定だったのかもしれない。人とは違うということで自身の質に関わりなく肯定しようとしたのだ。

 

だが、本当の自己肯定とは根拠があってはならないと思う。例えばクラスで一番学力が高いという観点で自己を肯定していた場合はその根拠が崩れたときに肯定できなくなってしまうし、他の根拠をあげて肯定する場合にもこの方程式は当てはまると思う。根拠のない肯定こそが自己肯定の本質であり、自分の最大の味方は自身でなければならないのだろう。

 

 

わたしはまだわたしの味方にはなれていない。だが、歪なわたしをわたしは肯定している。