注意力三万世界

脳筋チンパンカラクリのぼやき。句読点に苦手意識があります。

幸福は終わりの始まり。

いつだって誰だって幸せに囲まれていたい。

 

おや、そこのあなたもその一人ですね。

 

 

幸せの形は十人十色、仕事終わりに天丼食ってるあいつや朝サボテンに水をあげるわたし、あのバンドのライブを見に行った彼や気になるあの子と一緒に帰った野郎だって幸せなわけです。ユアネス ハピネス。

 

 

幸せをどこに見いだすかは中々に難しいんじゃないでしょうか。あなたの幸せはなんですかと聞かれたところでそれが短期間的なものなのか長期間的なものなのか、はたまたうれしいことを定義とするのか楽しいことを定義とするのか両方かそれ以外か。それは一人で得れるものなのか誰かと繋がらないと得れないものなのか。幸せを感じ、見つけることの難しさはそのあまりにもフンワリとした輪郭にあると個人的には思います。

 

 

わたしはやりたいことをやる時間を確保できる今の生活に幸せを見いだしていますが、うれしいことや楽しいことにも幸せを感じます。そこにスポットを当ててみたときに出てくる問題として、幸せ真っ只中のその中心でもうすぐこの幸福が終わってしまうことに対する寂しさを探してしまうのです。美味いメシ食べたって、最高なライブを見たって、仲の良い連れと笑い転げたって、気になるあの子と過ごしたっていずれ終わっちまうって脳ミソの内側で思ってんだぜ。寂しいよな。

 

 

幸せの中にいながらも自ら寂しさを探しだして一人になったときのダメージを最小限にしようとしてしまう心の貧しさがあるのです。もったいね。

 

 

何をしたってどう恵まれていたってそれを良しと受け取りきれない貧しさがあれば幸せを感じきることは難しいんじゃないでしょうか。幸せを100感じきったあとにくる虚無感が恐ろしくて予防線を貼ってしまうのは大きいことを言ってしまうなら不幸とも言えてしまうような、そんなアドバンテージを自ら背負っているような気がしてなりません。

 

 

確かに、ネガティヴの温床って心地よいんですよ。自分で底辺を謳って予防線貼って誰にもこれ以上攻めさせないようにしてがんばらなくていい。わかります、哺乳類でありながら菌類との密接な類似性をその瞬間感じられるくらいにあの瞬間レベル下がりますよね。人以下必至。この感覚が幸せを感じとるのを阻害していると自覚していてもそこから抜け出す勇気を持つのはちとハードだから余計にね。もはや、精神的オフトンです。

 

 

良いことがあるとそれが無くなったときのことばかり考えてしまうもったいないピーポー、わたしだけではじゃないんでしょうか。あなたも愛されたいピーポーでもったいないピーポーなのかもしれませんね。